読んだ本
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メモ
ドゥルーズ「意味がそれを表現する命題の外で実在しないとしても、意味は事物の状態の属性であって、命題の属性ではない」
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日記
特にがっしりと構えず、ただ興味本意で読む。
量子力学のようなミクロの世界において、物事の「予測不可能性」は、言葉と意味の世界においてもその決定不可能性となんらかの類似、あわよくば相似しているのではないかとぼんやり考えていた。
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『意味の論理学』において「事物」と表現されている箇所を「事実」と置き換えて読んでみた。
また、『デカルトからベイトソンへ』において言及されていた現代の世界観、つまり近代化以降の世界において二分した「事実/価値」も考慮に入れた。
ついでにラッセルのパラドックスのことも思い出しながら本書を読み進めた。
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鹿野氏によれば、ドゥルーズの言う「命題」とは「意味を持つ文」であるとされる。
また、命題の指意(≒指示するもの)が成立するのは統語論的な規則をもって適切に配置されたときであるとした。
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真理の条件というものを規定する場合、言語で規定せざるを得ないわけであって、その言語をさらに規定、また規定、と無限後退が始まる。
ここで私は池田晶子の思想と接続させた。
端的に、言葉の意味は定義されるまでもなく、そうであると自明であるかのように元々「知っている」という不思議な現実が既に在るということを考える必要がある。
これが全てに先行しているように見えた。
そしてドゥルーズはこの絶対性をただ単にほじくりまわしているように感じた。