ナチに関するドキュメンタリーやこちらの本を読んで思わずにはいられなかった。
『我が闘争(上)』の冒頭部分に、話し言葉は書き言葉より大衆を動かす力が大きいことが書かれている。
なにが言葉の魔力だ、と感じてしまう。
たしかに、それほど言葉に力があることは間違いない。
ただ、それは魔力という表現で表すべきではない。
しかし、適切な言葉も見当たらない。
何故国民が演説によって狂気となったか。
それはあらゆる分析がなされただろうし、私が言うこともないのではあるが、やはり言葉を軽視した人々がいたからではないだろうか。
言葉を軽視した、というよりかは言葉について内省が足りなかった、と言うべきか。
プロパガンダ、洗脳。
この二つは言語なしには成立し得ない。
言語は記号ではない。
記号で洗脳することは不可能だ。
思考は記号ではなく言語で行われるのであるからだ。
言葉の力は悪魔的にもなり得る。
歴史を伝える義務がある、と人は言うけれども言葉が悪用されることの危険性も併せて伝えていくべきではないだろうか。
つづく