ジュディスバトラー『分かれ道:ユダヤ性とシオニズム批判』青土社 (2019年) と、
そもそも、何故このようにして自分は本を読んでいるのか、今一度考えてみた。
前者からは「善く生きる」ことの大切さ、自分で考えることの大切さを教えてもらった。
後者からは自分の筋を通すことの困難、意義を教えてもらった。
現代社会には問題が数多くある。
意図的に作られた問題もあれば本質的な問題もある。
個人としては、勝手ながら後者に全力でぶつかりたいという気持ちがある。
おそらく、2022年になりかける頃に自己の無力感を抱いた記憶がある。
世の中のことを知った気になっている自分に心底嫌悪感を抱いたこともあった。
かくして「読書日記」を始めることにし、まずは地道にやれりことをやるという生き方を選んだ。
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昨日読んだシェリング『学問論』において、哲学は学問の学問であると書かれていた。
これは何を意味するのだろうか。
おそらくではあるが、学問では示しきれないことを示していく使命が哲学にはある。
今日、日本学術会議の任命拒否が一部の人たちで問題にされている。
人文学の危機と叫ばれている。
政治と学問は本来独立しているはずだ。
この点に関しては知識が足りないので専門家に任せたいが、政治が学問に干渉していることは部分的に事実としてあるのではないだろうか。
思想には根拠がない、と何万回も言われているかもしれないが、だからといって思想を学ばずにどうやって政治を語ることが出来るというのだろうか。
困難ではあるが、バトラー氏や柄谷氏のような類い本を読み込むことによって、経済学や歴史で説明しきれていないと思われるような、高度に抽象的な理論から演繹的に世の中の現象を俯瞰し、そこから自分は何をすべきか見えてくると思うのである。
この2冊はそんなことを思わずにはいられない刺激的な本であった。
つづく