フラクタル構造の凄まじい点は、その応用力にある。
ある事象をフラクタル構造に当てはめ、相似していない部分が「矛盾」となる。
それだけである。
勿論、詭弁である可能性も高いので、これはあくまで手段のひとつとしたい。
(初めてこのブログに辿り着いた方はまずはこちらを参照を)
現代の正義論のひとつとして「リバタリアニズム」というものがある。
国家の介入を認めず、自由に生きることを最善とする立場である。
自由の反対は「専制」であり、それは「支配されること」となる。
要するに、リバタリアンは専制政治と反対側の政治体制を善しとする。
専制とは端的に言えば支配である。
つまり、リバタリアニズムは国家が人間を縛らないように、個々も縛られない生き方を選択することを善しとする。個々は何事からも自由であることを善しとする。
ここでいう「自由」とはあくまで「支配からの解放」という意味合いである。
欲望に駆られることは自由だろうか。快楽にふけことは自由だろうか。
否。
それは欲望に「支配」されていることに等しい。
故に、リバタリアンは「理性的」であることを善しとする。
(ここがいまいち分からない方はプラトン『国家』を読んでいただきたい)
理性的な人間で構成されている国家とは何か。
理性的な国家とは何を意味するか。
完全に自由な経済活動を許した場合、果たして個人の様々な権利は保証されるだろうか。
格差が発生しても、飢餓が局在的に発生しても、それでも国は介入しない。
これが「理性的な国家」と言えるだろうか。
政治経済に素人ながらも、これは矛盾しているとしか思えない。
このように、フラクタル構造からはみ出たものが「矛盾」となると僕は考える。
こんにち、リバタリアニズムが批判の的になる場合、それは一貫性のなさ、矛盾の存在が原因ではないだろうか。
つづく