公共政策の手法として「ナッジ」というものがある。
完全に否定するつもりはない。問題の解決手法のひとつとして、取り入れるべきとは感じる。
ただ、これは塵も積もれば「誘導」から「洗脳」に変わり得る。
私たちは、何かをすることで何かを「提供」している。
もうそんな時代だ。
何かを検索すればそのデータを「提供」することになる。
マッチングアプリの行動履歴等のデータは相手に「提供」することになる。
転職サイトにおける個人のデータも必然的に相手に「提供」することになる。
何かを無料でできる時、何かを相手に「提供」している確率が少なからずある。
シンクタンクかGAFAか、どこにその情報が提供されているのかはさすがに分からないが、日々は私たちは無償でデータを提供している。
町へ歩けば数千個の「監視カメラ」が待ち構えている。
勿論、普通の人はそこまで気にするようなものではないかもしれない。
ただ、アナキスト気味の僕からすれば「異常」でしかない。
そしてこの「ナッジ」が人の「無意識」に働きかける。
そのなかで、「自由」に行動できていると言えるのだろうか。
私たちは「自由意志」を持っているのか。
こんなことを気にするのはナンセンスかもしれない。
ただ、データが売られていることは間違いなく現実であり事実である。
つづく