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読書と哲学がメインです。(毎日更新中)

読書日記178

ルマン・ワイル『精神と自然 ワイル講演録』ちくま学芸文庫(2014年)

ティム・インゴルド『生きていること』左右社(2021年)

を読む。

 

 

今年もいろいろな本を読んできたつもりではあるが、今のところ、やはり池田晶子氏の本だけが最も強力で心臓を貫く言葉を持ち合わせているように感じる。

どのように例えることができるだろう。

例えば「三つ子の魂百まで」という言葉が近いのかもしれない。

人は3歳までのことをほとんど忘れたまま、自己というものを問わずに、自己を何も知らないまま自己をその都度規定し、「自我なき機械」の如く世を彷徨いつづける。(ように見える)

 

 

バートランド・ラッセルの想い、カール・マルクスの想いも実らず、いまだに現代は労働時間が減ることを知らず、無駄に忙しない日々がつづく。

東京から大阪まで1時間で移動できるようになったところで人はまた仕事を増やすだけであり、「便利」というものは資本主義においては成り立ち得ない。

もはや何をもって「役に立つ」ことになり得るのか。

 

 

役に立つことが本質的には何を意味するのか。

僕はこの問いに対するミクロ的な解答を考えている。

マクロ的には答えは存在しないように見える。それは現実を見ればわかる。

 

 

冒頭に挙げた2冊を午前中に読み漁り僕はミクロ的な解答を模索する。

マルクスは「生産することが人間の生を規定する」と書いた。インゴルドはマルクス資本論』から「生きること」を再構成する。

 

 

生きることについて、生産の観点から突き詰めると歴史にたち戻り、歴史から遡及すれば住まうことにその本質は隠れている。

かくしてインゴルド芸術と建築の観点から「生きていること」の考察を始める。

 

 

ワイル少年時代にカント『純粋理性批判』を貪り読んだ物理学者であった。

「2+2=4」

という事実を説明するのは物質とか力という「実在」ではなく、先行する「なにか」が人間に判断を与えると指摘する。

 

 

物理、哲学、芸術、建築。

しかしここまで書いてみておもうところは、何故ここまで「生きていること」に関して、こんなにも複雑な議論をしてまで規定しなければならないのだろう。

 

 

それでも僕は考えたい。

池田晶子氏の「価値とは真理でしかない」が忘れられない。

 

 

つづく