つづきを読み進める。
人間を理解するには「差別」について理解しなければならない。
換言すれば、差別について多角的に分析すれば、日々の活動や仕事が資本主義に包まれるなか、自由主義が「身体化」された人間の性質をおおまかに記述できるようにも思える。
たとえば、アナウンサーが夜の街でこっそり働いていたことから内定を取り消されるという事例が過去にあった。
これを客観的にみれば、そこにはスティグマが存在するのは自明である。
仮に、こっそりボランティアに行っていたとか、こっそり介護施設で働いていたとなれば称賛に値される。
経済的な視点でみればそこには「対照性」が存在する。
介護は低賃金、銀座のクラブは高賃金。
まず、スティグマにはある種のルサンチマンがあるとみて良いのではないだろうか。
銀座で働けるのは「容姿端麗」である必要があるかもしれない。
すると、スティグマとルッキズムに関する結合があると考えても良いかもしれない。
そして、容姿は遺伝によってほぼ決まる。このメリトクラシーにおいて、容姿は生活水準に影響を与える。
この「不平等」感から差別感情に繋がっていく可能性も考えることができる。
となれば、これらの状況をかんがみれば社会的な「なにか」が差別感情発火への「触媒」となっているとみても良いのではないだろうか。
裏をかえせば、やはり社会的なアプローチから差別感情を減らしていくことはできるかもしれない。
その消火活動をいかにすべきか。
これは放置して良いものだとは思えない。
火事である。
火はとなりへ、となりへと移っていく。
つづく