つづきを読み進める。
本日は第四章の半分までまとめる。
三章では、国家が貨幣を造ったという「信用理論」の巧みな罠を解体した。
「原初的負債」という概念は宗教と密接に絡んでいる。
信用論者はサンスクリット語で書かれた宗教の文献を引っ張り出して、人間の罪は「負債」であるということを示した。
グレーバーは人類学の資料からその虚構性を指摘する。以上が三章の大まかなまとめである。
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四章は小銭を巡る話が展開される。
コインの表には政治的権威である国家の象徴が刻まれていて、裏にはその価値、つまり数字(値段)が刻まれている。
政府が貨幣を作り出し、承認し、貨幣が物々交換の不便を解消するために存在していた、、、わけではなかった。
その例として、
ローマ帝国の内部では、硬貨に含まれている銀の価値よりもはるかに高い価格で流通していたとグレーバーは述べている。
しかも、政府がそれをその価格通りの価値で受領することを厭わなかった。
これが貨幣という虚構の根拠であるとする。
ニーチェは『道徳の系譜学』においてアダム・スミスの議論を大胆な仕方で推し進めた。
内容はこうである。
負い目という感情は、存在する限りもっとも古く原初的な感情であり、売り手と買い手の関係、つまり債務者と債権者の関係から生まれた人格である。
そして人格と人格がぶつかりあうと「比較」が始まる。
値段をつけること、価値を測定すること、これは「比較」によるものであり、人間の優越感も比較によるもである。
ニーチェは、人間は評価する生き物であるとした。
そして、交換、契約、負債、権利、義務といった感情は「比較」を通して原初的な形式として生まれたとする。
やがて「力の比較」に移行し、共同体の原理となる。
グレーバーによれば、アダム・スミスは、「人間の本性は物々交換である」と述べたが、それは商業的な観点であって、ニーチェはそんなことを想定はしていなかったと指摘する。
ニーチェによれば、人間が共同体を形成し始めた時、共同体と個人の関係性については必然的に「負債 ≒ 負い目」の観点がつきまとう。部族は個人に平和と安全を与えてくれる。ゆえに人は部族に「負い目 ≒ 負債」を追うと。
また、ニーチェの論考は「救済」の概念に対しても重要な点を与えてくれるという。
救済という意味のヘブライ語[padah]は、先祖伝来の土地の回復、担保として債権者の手元にある物品、という意味で使われていたとされる。
端的に言えば、バビロンの話にまで遡ると、救済は「負債からの解放」となる。
文字数の関係で割愛する。(次回詳しく書いていく)
ここで重要なことは、救済は「なにかを買い戻す」ことではなく、「システムの破壊」に近いことが判明してくることである。
急ぎ足になってしまったので、
次は、モラルと負債が宗教でどうねじ曲がっているのかをまとめていく。
四章の内容をしっかりとした形にしていく。
つづく