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原因/結果と関数。精神医学に関して

代は、とにかく原因を特定しなければ気が済まないように見える。

社会的に重大な事故が起きれば、まあ当然、究明するのは当たり前なのだけれども。

しかしながら、その完璧主義的な論理構造に僕は欠損を感じる。

 

 

 

例えば、富士山はいずれ噴火するもの。いつきてもおかしくはない。と人は言う。

そこに「何故」という、マスコミ的な取り憑きはない。

何故か。

おそらく「諦め」でもある。

現代の科学力には限界があるのだろう。

 

 

でも精神医学にはその空気がないように見える。

マスコミ的に、何故、何故を繰り返すのが精神科である。

 

 

この違いはなんだろうか。

例えば、近代化以降、長らく人間は労働によって公私を抑圧されてきた。

その結果何が起きたのかは様々な書物に書かれている。

 

 

うつ病もそうであろう。

止まらないライン通知、常に貼りつくSNSスマホを取ればシャワーのように降ってくるニュース、窮屈な満員電車、時間通りに動く機械的日常、自分を殺さなければならない仕事etc

 

 

こんな世の中で、「うつ病はいつ起きてもおかしくありません」とは言わない。

要するに、火山は防ぎようがない、でもうつ病は防げる、と言っているように聞こえるのである。(部分的に正しいとはいえ。いや、そうでもない気がしてくる。)

ここがおかしいと僕は思っている。

火山も精神も、原理的には今のところ解明不可能の状態であろうに。

それは、結局は資本主義の副産物だろう。

最後に関数について軽く触れて記事を終了したい。

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結果とは「無限に存在する原因の総体」であるようにみえる。

 

 

つまり、積分に近い。

不定積分のように、位置を定めて、その範囲の計算をするような仕方で、

原因の特定もある時系列で区切ってから行うのが常識である。

 

 

 

ただ、それは机上の空論であることは疑いようがない。

原因が少ししかわかっていないのと、そもそもどんな関数かすら分からない。

これが実態と理論の剥離であろう。

原因と結果はそう単純ではないように僕はみえる。

つづく