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責任と反動、そして選挙

「国民の大半はバカなので、選挙にいく意味がない」

という主張がある。

 

 

この考え方はポピュリズムに対する皮肉のようなもので、裏を返せば「自分は無力だ」と言っているようなものである。

「それでも事実上、どうしようもないのでしょうがない」

という反論が返ってくる。

 

 

例えば、選挙で選ばれた人たちが失敗し、国民に何らかの負担を強いらざるを得ない、という事態になったとき、彼らはそれを受け入れるのかどうか。

というよりかは、既に部分的にそういう状態もあるのではないだろうか。

 

 

それでも何とも思わずに、シニシズムのように、ただ自分が生き残りつづける方法だけを模索しつづけるのだろうか。

選ばれた人の責任は国民にもあるのではないだろうか。

 

 

つまりは、責任を放棄した結果、それがなんらかの形で返ってくるということである。

それをしぶしぶ受け入れることが「責任を取る」ということなのだろうか。

この場合、責任の源泉は「放棄」である。

僕は責任の「質」を問う。

 

 

というのも、ヒトラーの大罪は国民の大罪とも思われるからである。

あのモニュメントは国民の「罪」を象徴するものであると思われる。

ドイツ国民が罪を背負いつづけるのは、「放棄」していない証拠である。

これは前の記事で触れた。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

それに対して、「選挙にいくのは意味がない」と冷笑的な態度を取っている人間は、全体主義が生まれるメカニズムへ荷担していないだろうか。

 

 

 

放棄とは責任を取ることではなく、責任を取らない態度のことではないだろうか。

つづく