こちらの記事の続きである。
僕が思い付いたこと、それは、
罪悪感の前に、恐怖の対象が個人間でズレているのでは?ということである。
例えば余命宣告を受けたとする。
「ああ、もうだめだ」
「自分がいけなかったからこんなことに、、、」
この両者のズレ、それは、
恐怖の対象が、宣告そのものなのか、宣告によるものかのか?である。
ここに、「神」が介入することで、自責か他責が分かれるのでは?と感じた。
これは決定論とも関係がありそうである。
運命は神によって決められているのか否か。
無神論者は宣告や病に恐怖を抱くかもしれない。
ただ、神を信ずるものはそうなのか?と突き詰めると、なかなか難しいと思う。
つづく