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「罪悪感」を考える。『<世界史>の哲学 近代篇2 資本主義の父親殺し』大澤真幸 を読んで

本人と外国人の罪に対する意識について考えた。

それは、外国の精神分析のやり方をそのまま日本人に、「単純に」応用するのは意味があるのか?と考えたためである。

 

"とりあえず、ドストエフスキーが、父親の殺害への欲望を、特殊な生活史的な背景からくる個人的な症状だとは考えていなかった" P34

 

大澤氏は、ドフトエフスキーがある「テーゼ」を提示していると見る。

カラマーゾフの兄弟』のイワンが、「もし神が存在しないとしたら、そのときには全てが許される。」と言っているのは、罪悪感の依拠を神の有無で決めているのではないか、ということであった。

 

これは、日本の歴史や文化を全く勉強していない僕にとっては、簡単には結論付けられるものではないと見ている。

がしかし、現実としては、「無神論者」が多い日本では、そもそも罪悪感の根本を、「神の有無」に求める姿勢は妥当ではない。

かといって、神を信じるかどうかは別問題であることは添えたい。

 

というのも、僕は日本人は自分を責めがちな傾向があるからと見ているからである。

それは、近年増加する精神疾患の患者数を見ればなんとなく想像はつく。

「私はダメな存在だ。」

「私は無能だ。」

「私には生きる価値がない。」

オリンピックを見てこう思った方がいるのは否定できないのではないだろうか。

実際に、ヤフー知恵袋でも数名の方がそう言っていた。

 

罪の意識がどこに向かっているのか、ということを深く考えると、精神療法、カウンセリングの在り方に対する見識が掴めるのではないだろうか。

 

つづく