『無理ゲー社会』書評その2
今日は「自由意思」を掘り下げました。
⚠️ここから先は私見です。根拠はありません。あくまでエッセイとして読んでください。ただ、文系理系問わず、科学的なことはしっかり勉強しています。
結論から書くと、僕は「自由意思階層説」を唱えます。以下理由を書きます。
奴隷状態から考えます。奴隷には「自由」がありません。(広義な意味での自由)
行動範囲は制限され、食事、文化的な活動、その他ほぼ制限のある生活を強いられています。職は「強制」なので、自由がありません。この状態において、自由意思があると見なせるのかは、哲学的な問題となるので、便宜上、割愛します。
その次の段階としては、貧困状態が考えられます。
行動範囲は「ある程度」制限されます。食事や文化的な活動も「ある程度」制限されます。職の選択は「ほぼ強制」なので自由はほぼありません。
その次の段階としては、中流層です。
行動範囲は「概ね」自由です。食事や文化的な活動も「概ね」自由です。
職の選択は「概ね自由」です。
その次は富裕層です。
行動範囲は「ほぼ自由」であり、食事や文化的な活動も「ほぼ自由」です。
職の選択は「ほぼ自由」です。
ここまでが、社会的な自由意思のお話です。
カーストが上位に行けばいくほど「社会的な自由意思」の自由度が上がります。
ここからが本題です。
「ほぼ強制」と「概ね自由」には大きな剥離があると考えます。
しかしながら、世界の話ではなく、日本で起きています。(本質的な奴隷はいないにせよ)
この剥離が「社会的な自由度を俯瞰する」力を左右すると考えます。
自分が今どういう状況にいるのか。その情報資源にたどり着くことができる「意思」は、メタ自由意思と呼ぶことができると考えます。
社会的な自由度を俯瞰する、ということは、「今自分がしている行動・目的にはどの程度社会から刷り込まれた価値観が自己に存在しているか。」を見ることです。
そして、メタ自由意思を手にして初めて、次なる「高次の自由意思」にたどり着く可能性が生まれると考えます。
次は、メタ自由意思を「あらゆる領域から俯瞰する」ステージです。
具体的には、生理学的、心理学的、脳科学的、認知科学的な知見をもとに「自由意思」の本質に迫ることができる領域です。
意思決定や認知バイアス、無意識のバイアスなど、近年いろいろな知見が生まれてきました。
どこまで理性の力が判断に及ぶのか。ここはまだ未解明の領域です。
高次な自由意思を手にすれば、さらに次へ、つまり、自由意思は階層である。という結論を導き出せる、僕は層考えました。
つづく。