よくある比喩としてこんな例えがある。
「感情はアクセル、それを止めるブレーキが理性だ」と。
いや、すでにおかしい。
アクセルがある。ブレーキがある。それはわかる。
アクセルを踏むのは誰ですか。ブレーキを踏むのは誰ですか。
まさか、ブレーキ(理性)がブレーキ自体を動かして暴走した感情(いわばスピード)を抑えるなんて、そんなこっけいな話ありますか。
つまり。
理性と感情は独立していないのではないか。
人は、感情的になる、感情的にならないとかいうけれども。
判断力の多寡は感情の多寡の範疇にあるのではないですか。
多少いらついても暴力はしない。
でも限界以上の恐ろしいまでの怒りを感じたら手が出るでしょう。
理性なんてものは最初からないのであって、感情という枠のなかに判断力があるかどうか。その結果として理性があったか、なかったかが言えるのでは。
というのも、なぜこう思うのかというと、理性的に生きるとか、理性的に行動するという表現が、何かがおかしいと感じる日々があるからです。
何も感じない、いっけん無とさえ思われる状態がある。それでも感情が無いなんて表現、おかしくないですか。
感情が無い。それは有り得ない。
無であれば、なぜそこから急にポッと、感情が現れるのか。錬金術ですか。
感情が無いように見えるだけで、感情は常にある。安定しているかどうか。
理性的に行動する、とは言葉のマジックみたいなもので、実は感情と欲が上に立っている。
今日の昼は何食べようかな。
明日の会議では何を言おうかな。
何読もうかな。
無意識と感情という深い問題にぶちあたる。
フロイトさんの勉強は全くしていないので、見当はずれかもしれない。
ただ、人の行動の源泉はやはり感情ではないかと踏む。行動をすべて放棄すれば死へ向かう。そもそも、じっとするという行為も行動か。ええい、ややこしい。
ん、となると何も行動しないという行為が矛盾していて成り立たないみたいだ。無はないということか。
じゃあ「自分には感情が無い」なんて、いっそう有り得ないじゃないか。
理性は無い。これも間違いなのか。言葉遊びなのか。